私について

福田 浩治とは・・・

私はこれまでHONDAのアソシエイトとして38年間、幸せな時を過ごし、2024年5月から、プロのコーチとしてネクストキャリアをスタートしました。
1961年生まれの63歳です。
HONDAに1986年に入社し、四輪車体の溶接生産技術を皮切りに、3Dプリンタや異音計測器の開発、アフターマーケットの戦略提案などの多種多様で多くのプロジェクトを経験してきました。40代半ばで管理職となりましたが、働き過ぎで鬱になり十数年格闘した後にマインドフルネスと出会い、鬱を克服しました。さらに鬱を克服した後も続いた低迷をコーチングと出会うことで抜け出し、V字回復し、最後は課の改革の主軸プロジェクトをリーダとして牽引しました。
今はセカンドキャリアとしてプロコーチとして谷口貴彦マスターコーチに師事し、クライアントが自ら高い目標に向かって歩み続けるのを支援しています。
その中でクライアントさんと共に成長し、失敗を楽しみ、ゴールに向かって活き活きと進むことを目一杯楽しんでいます。
クライアントさんと一緒に”やったね!”と満面の笑顔になるときが最高の瞬間です。


なぜコーチングなのか。

私は40歳半ばで過労から鬱を発症し、15年間格闘し続けました。なんとか抜け出しましたが、その後も仕事力が大きく下がり、家庭もぐちゃぐちゃ、大きな壁にぶち当たったまま数年が過ぎました。
「かつてのような自分にはもう戻れない。」
「このまま人生終わってしまうのか。」
眼の前が暗く閉ざされたような日々でした。そんな中、60歳の管理職定年を前にして、会社のこれからどうしていくのかを考えるセミナーでコンサルタントの方から、
「コーチに向いているのではないか」とのアドバイスをいただきました。
先が全く見えない闇の中だった私は、その言葉に藁をもすがる思いで飛びつき、コーチングについてたくさん調べました。
そしてある日、師匠である谷口貴彦マスターコーチのオンラインセミナーに参加しました。そこで谷口コーチから投げかけられたたった2つの質問…

「福田さんのその夢、制限が何もなかったとしたら?」
これまで自分がいかに自身に思い込みの「できない、無理だ」という足かせを掛けて、どんどんそれを強め続けていたのか、それを外すことは実はすごく簡単で、外した瞬間にいかに広い可能性の世界が目の前にパーっと広がるかを体験しました…。
「僕はできるんだ、やっていいんだ」すごいアハ体験でした。まるで心に翼がついたように感じました。
「福田さんの本心はなんて叫んでいるの?」
聞いた瞬間、自分につけていた軛(くびき)が一気に消えました…「よし、やろう!」
覚悟を決めて、自分自身が変わった、心の翼が大きく羽ばたき始めた瞬間でした。

そこから、私の人生は停滞から進み続けるに大きく変わり、嬉々として幾つものチャレンジを重ね、壁にぶつかることを楽しむようになり、暗かった毎日が楽しくて仕方なくなりました。
共にチャレンジし続ける素晴らしい仲間とも出会えました。今は目に映るいろいろなことが鮮やです。会社の仕事も大きく改善しました。(ちなみにこの頃職場で勝手に始めた取り組みが、今は課を改革するメインテーマとなっています。)
自分が出会ったこのすごい体験を多くの人に感じてもらい、楽しく素晴らしい自分らしい人生を送るサポートがしたい。 これがコーチングを始め、続けている理由です。


福田ってどんな人・・・

私はよくこんな人だと言われます
柔和、優しい、大っきい(太っている)、頭が良い、引き出しが多い、また会社では仙人、参謀と呼ばれたこともあります…変なことを平気で言う変な人という意味なんですかね?

私が大切にしていること(信念/信条/価値観)

  • やってみるまでは仮説、99%は仮説
  • 変化しないのは死んでいること、早晩腐る
  • 何事も楽しもう
  • 自分らしくを最優先、でも周りへの思いやりはすっごく大切にする
  • 問題を話題にしても解決しない、本質を解決しよう
  • コントロールできないことには手を付けない、コントロールできることに集中する
  • 反省はするが後悔はしない
  • プロである限り、全力を尽くす
  • 自身の行動に自分で責任を持つ、無理とは言わない、しないと言う
  • 冷徹な頭脳と温かい心を併せ持つ
  • 自身と思考や感情は切り離せる、一体ではない
  • 脳はすごい、お友達になろう
  • なんにでもは、なんにもと同義語
  • 新しいことが大好き
  • 完璧や完全、絶対は存在しないし、目指さない …

所属・資格等

  • 日本コーチ協会正会員
  • ハイキャリバーコーチ養成講座1期生
  • (一社)マインドフルネス瞑想協会 認定講師

年表

1961年

大阪の大手前病院で帝王切開により生を受ける。 母は3日間苦しんで「こんな病院燃やしてやる!」と叫んだそうで、まぁ、生まれたときから親不孝者です。

1966年

私立の保育園に入るも、大人数が怖くて教室に入れない、バス送迎で行き先を間違うなど不安が溜まって、数ヶ月で中退

1968年

大阪市立すみれ小学校入学、入学早々のペーパーテストで何を書いてよいか理解できず、一人教室に居残り・・・

1969年

小学二年、九九が頭に入り切らず、またまた居残りの日々・・・

1970年

新任の辻先生が心配してくれて、すごくわかりやすい補修を受け、このあたりから色々と上向き出しました。

1972年

担任の堀江先生の指導のお陰で、物事に主体的に取り組むようになりました。 たわけ!ビンタ3つ!!…自分で自分にビンタ、今でもたまにやってます。

1975年

小学校入学頃からパニック障害で外に出られなくなっていた父が癌で他界… でも強く悲しむことも、涙が出ることもありませんでした、理由は未だに謎です。

1976年

大阪府立茨田高校入学。母子家庭でどうしても公立校に合格しなければいけない+新設校なので面白いチャレンジができそうというのが志望動機でした。 地学部部長として高校生活を思いっきりエンジョイしました… でも女子には冷やかな目で見られているような気がしていました。変人だとバレていたんでしょうね。

1980年

大阪工業大学機械工学科に入学。地学系の大学に進みたかったのですが、先生から就職がないと言われ、第2志望のエンジニアの道を選びました。 大学3年間は、母子家庭で絶対落第できない崖っぷちで勉強を頑張ると共に、家計の為に試験期間を除いて毎日スーパーでバイト、自慢はレジ打ちの速さで、誰にも負けませんでした。

1984年

大学4年から大阪大学溶接工学研究所に共同研究の名目で通い始めました。 大学を首席卒業し、その研究所の大阪大学大学院工学研究科溶接工学修士課程に進みました。 朝から晩まで実験研究漬けの毎日で終わりの時間は実験が一区切りついたら・・・今で言えばブラックでしたが世界最先端の研究者である先生方との実験研究の日々、凄まじく楽しい日々でした。

1986年

本田技研工業(株)に入社、現場実習6ヶ月の予定が円高で12ヶ月に延長・・・辛かったです。

1987年

4輪車体の溶接生産技術として新機種の立ち上げ、ラインの体質改革、新ライン立ち上げなどに関わりました。 社内公募で3Dプリンタの開発をプロジェクトリーダーとして行い、S800のボンネット復刻販売などを行いました。 続いて、補修部品の供給体制改革、アフターマーケット戦略検討プロジェクトなど、もともと自分の専門性とは関連性の全く無い多種多様なプロジェクトに参加していました。

1994年

結婚、見合いなのに回答まで1年待たされました・・・ 何を考えているかわからない、変なあぶない人と家内は認識していたようです。 まぁ、大体にして何も考えてなかったんですけれど、ね。

2005年

管理職に認定されるも過労で鬱を発病・・・ここから長い鬱との戦いが始まります。

2007年

一旦鬱を寛解し、異音診断機のプロジェクトリーダーとして3年間頑張るも、部下との人間関係で再び鬱堕ち。その後も仕事のできないサイコパスとか、色々とダーク面の濃い人との仕事が続き、心はいつも闇の中でした。

2019年

鬱完治を目指すマインドフルネス(SIMT)と出会い、徐々に鬱ヌケし始めましたが、仕事のパフォーマンスは最低のまま、実績の出ないつらい日々が続いていました。

2021年

管理職定年、この先のキャリアを考える社内セミナーでコンサルタントさんから 「コーチ」に向いているかもとのアドバイスを受けて、コーチに付いて調べ、強い関心を持ち始めました。

2022年

谷口貴彦マスターコーチと出会い、一気に目の前に可能性の世界が開けました。 この時の体験、その後の人生の好転を他の人にも提供したいと強く思い、プロコーチを目指して活き活きと進み始めました。 谷口コーチに師事しコーチングを学び、コーチ仲間と切磋琢磨すると同時に実際にクライアントさんにコーチングを実施中です。 コーチングを活かして会社の仕事も大きく好転し、課の主要改革テーマのプロジェクトリーダーとしても活躍中です。 鬱ヌケの原動力になったマインドフルネスについても吉田昌生先生に師事し、講師認定を受けて、瞑想講師としても活動しています。