私の使命は・・・

夢を諦めずにいつも瞳をキラキラと輝かせて、夢やゴールに向かってチャレンジをし続ける人を増やし、そういう大人や年長者を見て、子どもたちが「大人っていいな。」「あんなかっこいい大人に早くなりたい。」と思い、若者たちが自らの夢を諦めなくなる、そういう世界を将来に渡って残すことに全力を尽くすことです。

私について

私ができること

1.あなたの情熱の再点火
 「モヤモヤしている40〜55 歳リーダー」の方の “この先 20 年” をワクワクで満たす“夢・ビジョン” を 一緒に言語で明確化します

2.その夢、ビジョン、ゴールに向かって進む勇気を全力でサポートします

3.その道のりで手に入れた知識や経験、人脈などの無形の資産を確実にあなたにインストールします

実績ハイライト
 ・50 代 大手IT企業管理職 → 管理職業務の傍ら、会社卒業後のビジネスに向けて準備開始
 ・40 代 サラリーマン → 退職して自らが目指す埋もれた人やモノを掘り起こし、脚光を浴びさせるビジネスに向かって、先ず民宿経営開始
 ・50 代 大手IT企業営業管理職 → 退職してビジネスサポートを開業
 ・30 代 ITサポート企業 → 独立に向けてサブビジネスを立ち上げ、顧客確保成功




なぜ私が選ばれるのか?
 ・テクノロジー × 人間力:Honda で様々な“ゼロ→イチ”を形にし続けた開発・リーダー経験
 ・谷口貴彦マスターコーチ直伝:潜在力を引き出す話させる力、聴き取る力と質問力
 ・レジリエンス実証済み:鬱から自らがV 字回復した経験とマインドフルネスなどセルフイメージを改善する力


所属・資格等

  • 日本コーチング協会正会員
  • 入間市倫理法人会会員
  • ハイキャリバーコーチ1期生
  • プロコーチ養成講座「虎プロ」第4期生
  • (一社)マインドフルネス瞑想協会 認定講師

福田 浩治の物語

こんにちは、チェンジライフコーチの福田です。

私の物語は、小学二年の教室で九九が覚えられなくて涙した時に始まります。周りの友達が校庭でで遊ぶ声を遠くに聴きながら、僕は「つまらなさ」と格闘していました。「つまらない」と全くやる気が起きないどころか頭が回らないというやっかいな状況、このときはまだそれが自分の特徴だとは気付かず、ひたすら劣等感にさいなまれていました。ところが理科の授業では、世界がいきなり色づいたんです。面白いという気持ちに火が点いた瞬間だけ集中力が爆上がりその学科だけテストで常に上位、算数も幾何や中学以降の数学になった途端興味が湧いてUP、反面興味のない英語や歴史はズタボロという変な生徒がここに誕生しました

大学では、専門的学術と研究の面白さに出会い、モチベーションが爆上がりしました。例えば停電した部屋でろうそくを灯し、眠気が来ればコンパスで足を突いて追い払ったり(どっちもやってみて意味なかったですけどね)――母子家庭でアルバイトに追われながらも、情熱だけは揺らぎませんでした。その結果、何の間違いか首席で卒業し大学院へ進みました

しかしそこで、修士研究の思ったようなデータが半年以上出ないという壁にぶち当たりました。追い詰められたにクリスマスの頃ついに開き直りましたそれまで積み上げた仮説を丸ごとひっくり返して実験に挑むと奇跡的に求めていた成果が現れ、「諦めない胆力」と「追い詰められたときの苦し紛れの一手」の威力を骨身で知りました。

就職先のHondaでは、面白さを感じられなかった出世のレールを自ら降りて社内公募チームに飛び込みました。常識外れの仲間と3Dプリンター技術を開発・商品を生産し、お客様に「さすがHondaだ!」と感謝の言葉をいただいた瞬間、価値観に沿った働き方こそ自らの力を最大限解放するんだと確信しました。

しかし管理職になると、価値観に合わない仕事と会議に埋もれ心が摩耗。満員電車で突然の動悸と吐き気に襲われ、十二年に及ぶ鬱との闘いが始まります。復帰と挫折を繰り返す暗闇の中、十年目にマインドフルネスと出会い、思考を観察する術を得ました。さらに谷口貴彦マスターコーチが放った一言――「君が今話してくれた夢、制限がなかったらどうなる?」――で、封じていた夢が一気に解き放たれました。自分を変えると健康も仕事もV字回復し、「状況を動かす鍵は自分の内側にある」と腹の底で悟りました。

回復からしばらくして役職定年を迎えた朝、ふと周りを見渡すと、輝きを失った同僚や夢を語らない、勇気を手放した若者たちが目に入りました。コーチングという灯を手にした私は、「次は私が彼らの勇気に火を点けるんだ」と自らの心に誓いました。

サラリーマン時代からコーチングの実戦を始める中である引きこもり経験のクライアントが八か月でNPO設立の資金源ビジネス責任者へ、鬱寸前だった会社員が趣味を核にキャリアを再構築――クライアントが本物の夢へ走り出す瞬間に立ち会うたび、私の炎はさらに燃え上がりました。

今は一旦、母の脳梗塞で在宅でZoomを使ったコーチングに集中していますが、それでも一人でも多くの人の勇気を燃やすことをサポートすべく活動しています。これからもネットセミナーなど一人でも多くの人の勇気をサポートする方法を開拓し、――私自身は胸の炎を絶やさず、私は今日も誰かの勇気に火を点け、最大限輝かせ続けます。

年表

1961年

大阪の大手前病院で帝王切開により生を受ける。 母は3日間苦しんで「こんな病院燃やしてやる!」と叫んだそうで、生まれたときから親不孝者です。

1966年

私立の保育園に入るも、大人数が怖くて教室に入れない、バス送迎で行き先を間違うなど不安が溜まって、数ヶ月で中退

1968年

大阪市立すみれ小学校入学、入学早々のペーパーテストで何を書いてよいか理解できず、一人教室に居残り・・・
小学二年では、九九が覚えられず、またまた居残りの日々・・・

1970年

新任の辻先生が心配してくれて、すごくわかりやすい補修を受け、このあたりから色々と上向き出しました。

1972年

担任の堀江先生の指導のお陰で、物事に主体的に取り組むようになりました。 「たわけ!ビンタ3つ!!」自分で自分にビンタ、今でもたまにやってます。

1975年

小学校入学頃からパニック障害で外に出られなくなっていた父が癌で他界

1976年

大阪府立茨田高校入学。母子家庭でどうしても公立校に合格しなければいけない+新設校なので面白いチャレンジができそうというのが志望動機でした。 地学部部長として高校生活を思いっきりエンジョイしました。(大型連休の宿題を一切足らないなど、先生から嫌われていたかも)

1980年

大阪工業大学機械工学科に入学。大学3年間は、母子家庭で絶対落第できない崖っぷちで勉強を頑張ると共に、家計の為に試験期間を除いて毎日スーパーでバイト、自慢はレジ打ちの速さで、誰にも負けませんでした。

1984年

大学4年から大阪大学溶接工学研究所に共同研究の名目で通い始めました。 大学をなぜか首席卒業し、大阪大学大学院工学研究科溶接工学修士課程に進みました。 朝から晩まで実験研究漬けの毎日で終わりの時間は実験が一区切りついたら・・・今で言えばブラックでしたが世界最先端の研究者である先生方との実験研究の日々、凄まじく楽しい日々でした。

1986年

4輪車体の溶接生産技術として新機種の立ち上げ、ラインの体質改革、新ライン立ち上げなどに関わりました。 社内公募で3Dプリンタの開発をプロジェクトリーダーとして行い、S800のボンネット復刻販売などを行いました。 続いて、補修部品の供給体制改革、アフターマーケット戦略検討プロジェクトなど、もともと自分の専門性とは関連性の全く無い多種多様なプロジェクトを渡り歩きました。

1994年

結婚、見合いなのに回答まで1年待たされました・・・ 何を考えているかわからない、変なあぶない人と家内は認識していたようです。正解です。

2005年

管理職に認定されるも過労で鬱を発病し、ここから12年間鬱との戦いです。

2007年

一旦鬱を寛解し、異音診断機のプロジェクトリーダーとして3年間頑張るも、部下との人間関係で再び鬱堕ち。その後も仕事のできないサイコパスとか、色々とダーク面の濃い人との仕事が続き、心はいつも闇の中でした。

2019年

鬱完治を目指すマインドフルネス(SIMT)と出会い、徐々に鬱ヌケし始めましたが、仕事のパフォーマンスは最低のまま、実績の出ないつらい日々が続いていました。

2021年

管理職定年、この先のキャリアを考える社内セミナーでコンサルタントさんから 「コーチ」に向いているかもとのアドバイスを受けて、コーチに付いて調べ、強い関心を持ち始めました。

2022年

谷口貴彦マスターコーチと出会い、一気に目の前に可能性の世界が開けました。コーチングを活かして会社の仕事も大きく好転し、課の主要改革テーマのプロジェクトリーダーにも就任。この体験、その後の人生の好転を他の人にも提供したいと強く思い、プロコーチを目指して活き活きと進み始めました。 谷口コーチに師事しコーチングを学び、コーチ仲間と切磋琢磨すると同時に実際にクライアントさんにコーチングを実施。鬱ヌケの原動力になったマインドフルネスについても吉田昌生先生に師事し、講師認定を受けました。

2024年

64歳まで2年を残して、残りの人生半分、悔いなく、成長をし続け、最高の自分の自分を目指してプロコーチとして自分をリバイブしました。