私の使命は・・・

夢を諦めずにいつも瞳をキラキラと輝かせて、夢やゴールに向かってチャレンジをし続ける人を増やし、そういう大人や年長者を見て、子どもたちが「大人っていいな。」「あんなかっこいい大人に早くなりたい。」と思い、若者たちが自らの夢を諦めなくなる、そういう世界を将来に渡って残すことに全力を尽くすことです。

所属・資格等

  • 日本コーチング協会正会員
  • 入間市倫理法人会会員
  • ハイキャリバーコーチ1期生
  • プロコーチ養成講座「虎プロ」第4期生
  • (一社)マインドフルネス瞑想協会 認定講師

福田 浩治の物語

こんにちは、ハイキャリバーコーチの福田です。

私の物語は、小学二年の教室で九九が覚えられなくて涙した瞬間から始まります。周りの友達が外で遊ぶ声を背中に受けながら、僕は「つまらなさ」と格闘していました。「つまらない」と全くやる気が起きないどころか頭が回らないというやっかいな特徴の発現でした。ところが理科に出会った途端、世界が色づきます。面白さに火が点いた瞬間だけ集中力が爆発し、テストでは常に上位――やっかいな特徴が武器へ変わった最初の証でした。

大学では、専門的学術と研究の面白さに出会い、炎がさらに燃え上がります。例えば停電した部屋でろうそくを灯し、眠気が来ればコンパスで足を突いて追い払ったり――母子家庭でアルバイトに追われながらも、情熱だけは揺らぎませんでした。首席で卒業し大学院へ進むと、修士研究で思ったようなデータが出ないという壁にぶち当たります。途方に暮れた末、仮説を丸ごとひっくり返して挑むと奇跡的な成果が現れ、「諦めない胆力」と「大胆な転換」の威力を骨身で知りました。

就職先のHondaでは、出世レールを降りて社内公募チームに飛び込みます。常識外れの仲間と3Dプリンター技術を開発・商品を生産し、お客様に「さすがHondaだ!」と讃えられた瞬間、価値観に沿った働き方こそ力を解放すると確信しました。

しかし管理職になると、数字と会議に埋もれ心が摩耗。満員電車で突然の動悸と吐き気に襲われ、十二年に及ぶ鬱との闘いが始まります。復帰と挫折を繰り返す暗闇の中、十年目にマインドフルネスと出会い、思考を観察する術を得ました。さらに谷口貴彦マスターコーチが放った一言――「制限がなかったら?」――で、封じていた夢が解き放たれます。自分を変えると健康も仕事もV字回復し、「状況を動かす鍵は自分の内側にある」と腹の底で悟りました。

回復からしばらくして役職定年を迎えた朝、ふと周りを見渡すと、輝きを失った同僚や夢を語らぬ若者たちが目に入りました。コーチングという灯を手にした私は、「次は彼らの心に火を点けるんだ」と自らの心に誓います。

サラリーマン時代からコーチングの実戦を始める中である引きこもり経験のクライアントが八か月でNPO設立の資金源ビジネス責任者へ、鬱寸前だった会社員が趣味を核にキャリアを再構築――クライアントが本物の夢へ走り出す瞬間に立ち会うたび、私の炎はさらに燃え上がりました。

今、次の舞台は地元・飯能。人口七万の町を「夢を語る大人」で満たし、本田宗一郎と藤沢武夫のように異質な才能を結び付け、街ごと未来を照らす。そのためにコミュニケーションとゴール達成のノウハウを広め、仲間を育て、スーパーコンビを生み出す仕組みを築くつもりです。

一人では届かない未来も、仲間となら創れる――胸の炎を絶やさず、私は今日も誰かの可能性に火を点け、最大限輝かせ続けます。

年表

1961年

大阪の大手前病院で帝王切開により生を受ける。 母は3日間苦しんで「こんな病院燃やしてやる!」と叫んだそうで、生まれたときから親不孝者です。

1966年

私立の保育園に入るも、大人数が怖くて教室に入れない、バス送迎で行き先を間違うなど不安が溜まって、数ヶ月で中退

1968年

大阪市立すみれ小学校入学、入学早々のペーパーテストで何を書いてよいか理解できず、一人教室に居残り・・・
小学二年では、九九が覚えられず、またまた居残りの日々・・・

1970年

新任の辻先生が心配してくれて、すごくわかりやすい補修を受け、このあたりから色々と上向き出しました。

1972年

担任の堀江先生の指導のお陰で、物事に主体的に取り組むようになりました。 「たわけ!ビンタ3つ!!」自分で自分にビンタ、今でもたまにやってます。

1975年

小学校入学頃からパニック障害で外に出られなくなっていた父が癌で他界

1976年

大阪府立茨田高校入学。母子家庭でどうしても公立校に合格しなければいけない+新設校なので面白いチャレンジができそうというのが志望動機でした。 地学部部長として高校生活を思いっきりエンジョイしました。(大型連休の宿題を一切足らないなど、先生から嫌われていたかも)

1980年

大阪工業大学機械工学科に入学。大学3年間は、母子家庭で絶対落第できない崖っぷちで勉強を頑張ると共に、家計の為に試験期間を除いて毎日スーパーでバイト、自慢はレジ打ちの速さで、誰にも負けませんでした。

1984年

大学4年から大阪大学溶接工学研究所に共同研究の名目で通い始めました。 大学をなぜか首席卒業し、大阪大学大学院工学研究科溶接工学修士課程に進みました。 朝から晩まで実験研究漬けの毎日で終わりの時間は実験が一区切りついたら・・・今で言えばブラックでしたが世界最先端の研究者である先生方との実験研究の日々、凄まじく楽しい日々でした。

1986年

4輪車体の溶接生産技術として新機種の立ち上げ、ラインの体質改革、新ライン立ち上げなどに関わりました。 社内公募で3Dプリンタの開発をプロジェクトリーダーとして行い、S800のボンネット復刻販売などを行いました。 続いて、補修部品の供給体制改革、アフターマーケット戦略検討プロジェクトなど、もともと自分の専門性とは関連性の全く無い多種多様なプロジェクトを渡り歩きました。

1994年

結婚、見合いなのに回答まで1年待たされました・・・ 何を考えているかわからない、変なあぶない人と家内は認識していたようです。正解です。

2005年

管理職に認定されるも過労で鬱を発病し、ここから12年間鬱との戦いです。

2007年

一旦鬱を寛解し、異音診断機のプロジェクトリーダーとして3年間頑張るも、部下との人間関係で再び鬱堕ち。その後も仕事のできないサイコパスとか、色々とダーク面の濃い人との仕事が続き、心はいつも闇の中でした。

2019年

鬱完治を目指すマインドフルネス(SIMT)と出会い、徐々に鬱ヌケし始めましたが、仕事のパフォーマンスは最低のまま、実績の出ないつらい日々が続いていました。

2021年

管理職定年、この先のキャリアを考える社内セミナーでコンサルタントさんから 「コーチ」に向いているかもとのアドバイスを受けて、コーチに付いて調べ、強い関心を持ち始めました。

2022年

谷口貴彦マスターコーチと出会い、一気に目の前に可能性の世界が開けました。コーチングを活かして会社の仕事も大きく好転し、課の主要改革テーマのプロジェクトリーダーにも就任。この体験、その後の人生の好転を他の人にも提供したいと強く思い、プロコーチを目指して活き活きと進み始めました。 谷口コーチに師事しコーチングを学び、コーチ仲間と切磋琢磨すると同時に実際にクライアントさんにコーチングを実施。鬱ヌケの原動力になったマインドフルネスについても吉田昌生先生に師事し、講師認定を受けました。

2024年

64歳まで2年を残して、残りの人生半分、悔いなく、成長をし続け、最高の自分の自分を目指してプロコーチとして自分をリバイブしました。