私の使命は・・・

夢を諦めずにいつも瞳をキラキラと輝かせて、夢やゴールに向かってチャレンジをし続ける人を増やし、そういう大人や年長者を見て、子どもたちが「大人っていいな。」「あんなかっこいい大人に早くなりたい。」と思い、若者たちが自らの夢を諦めなくなる、そういう世界を将来に渡って残すことに全力を尽くすことです。
所属・資格等
- 日本コーチング協会正会員
- 入間市倫理法人会会員
- ハイキャリバーコーチ1期生
- プロコーチ養成講座「虎プロ」第4期生
- (一社)マインドフルネス瞑想協会 認定講師
福田 浩治の物語
こんにちは、福田と申します。
今日は私のこれまで、チェンジライフコーチとしての道を歩み始めた経緯や、そしてこれから進む先にある夢について、少しお話しさせていただければと思います。どうか最後までお付き合いください。
私は、小さい頃から「変わり者」でした。小学2年で九九がどうしても覚えられなくて、いや、正確に言えば覚える気が起きませんでした。外から友達が楽しそうに遊ぶ声が聞こえる中、私は一人教室に残り、九九を頭に詰め込もうとあがいていました。「どうして自分だけできないんだろう?」と涙が込み上げてきました。でも振り返るとこのときの「気持ちが起きない」ということが、私には大きな意味がありました。それは自分が「本当に価値を感じること」に対して驚くほど集中する反面、価値観を感じないと全くやる気が起きないという生まれ持っての私の特徴です。その証拠に小中高と、ある領域ではトップの実力を出す一方で他の領域では全く落ちこぼれていました。それを自分の個性として自覚したのは、もっと大人になった後です。
大学時代の専門学の世界は「面白い!」と思う事だらけで、講義に夢中になりました。父を早くに亡くした母子家庭で経済的に厳しく、バイトをしながらの学生生活でしたが、情熱は熱く、停電した部屋でろうそくを灯し、眠くなった時はコンパスで足をつついて眠気を飛ばそうとしました。(眠気が勝ちましたが(笑))。楽しみながら全力で頑張ったおかげで、私は首席で卒業し、大学院へもトップ合格することができました。
大学院での研究は日々新しい道を切り開く場で、本当に楽しくて仕方がありませんでした。ところが、修士論文の最終盤で大きな壁にぶつかりました。どうやっても、狙っていた結果が出ませんでした。追い詰められ、絶望的な気持ちになりながらあきらめずに数週間、「もう仮説なんてどうでもいい、条件をひっくり返してやる!」と開き直って挑んだところ、なんと結果が出ました。あの時の「やった!」という爆発的な喜びは今でも忘れられません。この経験から、「諦めないこと」、そして「追い詰められた時こそ大胆に動くこと」の大切さを学びました。
その後、Hondaに就職しました。最初は「面白いことをやるんだ」と胸が高鳴っていましたが、次第に仕事がただの作業に感じられ、やりがいを見失ってしまいました。
結婚してすぐの31歳の時「価値を感じられない」作業の繰り返しのような苦痛=出世のレールから外れることを決意し、実行しました。飛び込んだところは社内公募で集まった変わり者集団、他の部署から「役立たずの趣味人の集まり」と呼ばれていましたが、そこでの私達は常識にとらわれずに、夢・高いゴールに向かって進むチャレンジャーでした。
「何をやってもいい、将来を背負えることを研究開発せよ。」…それは恐ろしい難問でした。しかし原点である「お客様が真に喜ぶベネフィット&自らが実現したい思い」に幾度も立ち戻り、追い詰められても諦めず大胆に動き、ついに3Dプリンター技術を仲間と開発してお客様に商品を届けることができました。
その時のお客様の言葉「ありがとう、よくやってくれた。さすがHondaだ。」とともにお客様のベネフィット、自らの価値観、諦めない、大胆にという学びを心に強く刻み込みました。
その後もチャレンジングなマーケティング・販売戦略などの仕事で成果を出したました。しかし、管理職になった私の周りは価値観に相反する仕事ばかりになり、それでも頑張り続けた私の心は気づかないうちにどんどんすり減っていって行きました。
そしてある朝、出勤電車の中で突然強い動悸と吐き気に襲われ、トイレに駆け込み吐いてしまい、そこから会社に行けなくなりました。12年間の鬱との戦いの開始でした。何度も復帰を試み、また倒れてしまう…。その繰り返しでした。孤独と失望の中で、「この西武線に飛び込んだら楽になるのかなぁ」と思う日もありました。そんな暗闇の中で出会ったのが、コーチングとマインドフルネスでした。
まず、鬱になった10年後に出会ったマインドフルネス瞑想で心が鎮まり始め、思考を観察できるようになって、マイナス思考が浮かび上がるのに気付けるようになりました。それまでお医者さんやカウンセラーさんに頼りっきりで、少し良くなって落ちるを繰り返していた私が自らの意思で自らを変え始めた瞬間でした。さらに自分と対話して対応策を打てるようになって段々とマイナス思考のデス・スパイラルか抜け始め、ついに12年目にうつヌケしました。
そこで私は「人の力を頼りにすることは大切」しかし「人生を変えるには自分自身を変えることが必要」「自身を変えることで道は開け、壁を超えられる」ということを学びました。
そして2022年、私は師匠である谷口貴彦マスターコーチに出会いました。
谷口コーチの質問、それが私の人生を変えました。
「福田さんさぁ、今聞かせてもらったその夢、制限がなかったとしたらどうなるの?」
それを聞いた瞬間、私の中で無意識に自分を縛り付けていた何かが弾け飛びました。
「え、僕の中にはもっと大きい夢があって、それは達成できる」と確信。
ただ、まだ「でも…」とためらう気持がありました。
そこで、次の質問
「福田さんの本心はなんて叫んでるの?」
その時、私の中に心からやりたい、実現したい夢が溢れ出しました。
私は長い会社生活で「できない」と思い込んで段々と自分の可能性と本心を縛っていたことに気づき、その瞬間から呪縛を自ら解き放ち再び自分の人生を歩み始めました。心の中に再び灯った炎は、以前とは全く違う強さで燃え始めました。そして行動をスタートした私の仕事や健康全てがV字回復し始めました。
そして、60歳で役職定年を迎えた時、私は「残りの人生をどう生きるか」を真剣に考えました。ふと周りを見渡すと、かつての輝きを失った仲間たち、つまらなそうにスマホゲームに没頭している若者、心から笑っていない子供たち…。そんな彼らを見て、「こんな社会を残したくない!」と強く感じたのです。自分を変えたコーチングという強力なツールを手にした今、一人でも多くの人が夢を諦めず、輝ける社会を作るんだ。その時私はそう強く決意しました。
今、私はその夢の実現に向けて、クライアントの方々と共に歩んでいます。
あるクライアントは引きこもりの経験を経て、自ら引きこもりの方々を支援するNPO立ち上げの夢を追いかけるのに、コーチングを受け始めてすぐ脱サラしました。しかし、応募した仕事に落たりと、何度も壁にぶつかりました。「どうしたらいいんでしょう」と苦しそうな顔の彼に向かって、私は「失敗=チャンスだよ!」とときには背中を押し、「こんなにうまく行っていいんでしょうか」と浮かれているときには「今は喜ぼう!」(でも次の壁はすぐ来るよ)とエネルギーをチャージしたりして進み続けるのをサポートしました。その結果、たった8ヶ月でNPOの資金源の一つに据えようとしているビジネスの経営責任者になったのです。その後も、壁をいくつも乗り越えながら彼の夢は大きく膨らみ、海外へも夢を拡大したいと思うようにまでなりました。
別のクライアントは、会社でのけつまずきに端を発してどんどん落ち込み、欝の寸前まで行っていました。「自分には出世の目はもうないかもしれない」「でも、自分は出世を求めてきたし、出世することが存在価値と今も思っている」と苦しい顔で話してくれました。
その後も、暗い表情に無理した笑みを貼り付けて、出世に希望を残すためにはあれで実績を出さないととか、メンタルが乱れているのに海外転勤を望んだりする話を聴くことが何回か続きました。
そこで、「今、心から楽しいって思えることはないの?」と聴くと、「趣味のために会社を早く上がって見に行ったりしているんだ」とか「今日も仲間とこういうことをやってきてね」とか話しながらだんだんと表情が緩んできました。
そういうコーチングセッションを続けていく中で、私は質問をしました。
「薄々気づいているけれど、気づかないふりをしていることは何?」
彼は、呻くように「出世を追い続けるべきなのかな?」とつぶやき、その日のセッションはそこまででした。
次のセッションで、彼は変化していました。
いきなり明るい顔で「趣味の夢」について語り始めました。
「こういうのを仲間と作る話をしていて…」
「〜までに、ここまでやって」と続ける彼は心からやりたいことを見つけたようでした。
彼らクライアントが大きな、本当に自分が実現したい夢にむかって進み続け、成長していくのをサポートしたり、見失った夢を見つけるのをサポートするコーチングの日々は楽しくて仕方がありません。自分自身がその中で成長し、また変化していくのもとても刺激的で楽しいです。
コーチングと並んでもう一つ、私には自分のノウハウを残すという夢も追い始めています。
それに行き着いたお話はここでは割愛しますが、その夢とは日本人は「コミュニケーション」「夢や目標の使い方」「タイムマネジメント」を学ぶ機会がない。「私はそのノウハウを持っているからそれを伝えたい」です。
例えばコミュニケーションについて知って実行するようになれば、関係良質なコミュニケーションができて、もっと人がお互いのことを尊重し、協力しあって、いじめなんかも減る。人と人がうまく甘えあえる、協力するようになって昔のような人の和によってもっと大きな夢を実現できるようになると思っています。
そして、これらとコミュニケーションの改善が組み合わされば、さらなる大きなシナジーを生み出せると信じています。
人がコーチングを受けて、自らのチカラを引き出せるようになって、一人では思いもよらなかった夢に向かって歩き続けるようになる。
コミュニケーションのベクトルが自分本位から相手本位に変われば、日本人がもともと持っていた人と人の和の力が発揮される。
そこに夢や目標の活用、タイムマネジメントなどが加われば、その夢はもっともっと数倍の高みを望むことができるようになる。
私は、今後そういう世界を実現していきます。
私の住んでいる飯能市は人口7万人の衰退し消滅するだろうと言われている街の一つですが、そこに住んでいる一部の楽しみながら歯を食いしばって頑張っている人達を知っています。
私はそんな飯能市の未来の本田宗一郎、自分の価値観を大切にして、大きな夢に向かって歩く人を更に大きなレベルの夢に向かって歩き続けるようにサポートしています。
さらに、コミュニケーションを改善することで宗一郎と藤沢武夫のように全く特性の違う、普通なら犬猿の仲・天敵となる人と人をもつなぎ、スーパーコンビを生み出して、もっともっと大きな夢の実現をサポートします。
そうして飯能市を夢に向かってキラキラしながら進む素敵なオトナで溢れかえらせます。
そうなったとき、下を向いて生気のない顔でトボトボ歩くおっさんが減り、前を向いて力強く歩くナイスミドルが増えます。
すぐキレたり、公園でワンカップを飲んでる赤ら顔のおっさんや爺さんがいなくなります。
酒場が愚痴のたまり場ではなく、夢を語り合う場になります。
会社卒業後のキャリアの支援で、爺さんになっても、いや一生、夢や趣味で輝く人が増えます。
電車でつまらなそうにスマホゲームをやる若者がいなくなり、夢を語り合うようになります。
そして子どもたちが存分に夢を語り、ああいうすっげー大人に早くなりたいと思える世界を残します。
私一人では難しいですが、コーチの仲間を募りまた育てて、他の領域の人たちとも繋がりながらそういう世界の実現を目指し続けます。
年表
1961年
大阪の大手前病院で帝王切開により生を受ける。 母は3日間苦しんで「こんな病院燃やしてやる!」と叫んだそうで、生まれたときから親不孝者です。
1966年
私立の保育園に入るも、大人数が怖くて教室に入れない、バス送迎で行き先を間違うなど不安が溜まって、数ヶ月で中退
1968年
大阪市立すみれ小学校入学、入学早々のペーパーテストで何を書いてよいか理解できず、一人教室に居残り・・・
小学二年では、九九が覚えられず、またまた居残りの日々・・・
1970年
新任の辻先生が心配してくれて、すごくわかりやすい補修を受け、このあたりから色々と上向き出しました。
1972年
担任の堀江先生の指導のお陰で、物事に主体的に取り組むようになりました。 「たわけ!ビンタ3つ!!」自分で自分にビンタ、今でもたまにやってます。
1975年
小学校入学頃からパニック障害で外に出られなくなっていた父が癌で他界
1976年
大阪府立茨田高校入学。母子家庭でどうしても公立校に合格しなければいけない+新設校なので面白いチャレンジができそうというのが志望動機でした。 地学部部長として高校生活を思いっきりエンジョイしました。(大型連休の宿題を一切足らないなど、先生から嫌われていたかも)
1980年
大阪工業大学機械工学科に入学。大学3年間は、母子家庭で絶対落第できない崖っぷちで勉強を頑張ると共に、家計の為に試験期間を除いて毎日スーパーでバイト、自慢はレジ打ちの速さで、誰にも負けませんでした。
1984年
大学4年から大阪大学溶接工学研究所に共同研究の名目で通い始めました。 大学をなぜか首席卒業し、大阪大学大学院工学研究科溶接工学修士課程に進みました。 朝から晩まで実験研究漬けの毎日で終わりの時間は実験が一区切りついたら・・・今で言えばブラックでしたが世界最先端の研究者である先生方との実験研究の日々、凄まじく楽しい日々でした。
1986年
4輪車体の溶接生産技術として新機種の立ち上げ、ラインの体質改革、新ライン立ち上げなどに関わりました。 社内公募で3Dプリンタの開発をプロジェクトリーダーとして行い、S800のボンネット復刻販売などを行いました。 続いて、補修部品の供給体制改革、アフターマーケット戦略検討プロジェクトなど、もともと自分の専門性とは関連性の全く無い多種多様なプロジェクトを渡り歩きました。
1994年
結婚、見合いなのに回答まで1年待たされました・・・ 何を考えているかわからない、変なあぶない人と家内は認識していたようです。正解です。
2005年
管理職に認定されるも過労で鬱を発病し、ここから12年間鬱との戦いです。
2007年
一旦鬱を寛解し、異音診断機のプロジェクトリーダーとして3年間頑張るも、部下との人間関係で再び鬱堕ち。その後も仕事のできないサイコパスとか、色々とダーク面の濃い人との仕事が続き、心はいつも闇の中でした。
2019年
鬱完治を目指すマインドフルネス(SIMT)と出会い、徐々に鬱ヌケし始めましたが、仕事のパフォーマンスは最低のまま、実績の出ないつらい日々が続いていました。
2021年
管理職定年、この先のキャリアを考える社内セミナーでコンサルタントさんから 「コーチ」に向いているかもとのアドバイスを受けて、コーチに付いて調べ、強い関心を持ち始めました。
2022年
谷口貴彦マスターコーチと出会い、一気に目の前に可能性の世界が開けました。コーチングを活かして会社の仕事も大きく好転し、課の主要改革テーマのプロジェクトリーダーにも就任。この体験、その後の人生の好転を他の人にも提供したいと強く思い、プロコーチを目指して活き活きと進み始めました。 谷口コーチに師事しコーチングを学び、コーチ仲間と切磋琢磨すると同時に実際にクライアントさんにコーチングを実施。鬱ヌケの原動力になったマインドフルネスについても吉田昌生先生に師事し、講師認定を受けました。
2024年
64歳まで2年を残して、残りの人生半分、悔いなく、成長をし続け、最高の自分の自分を目指してプロコーチとして自分をリバイブしました。